戦後に引き継がれた「終戦」ー舞鶴港と「引き揚げ」(2)

 舞鶴港が昭和20年10月の「雲仙丸」から、33年9月の最終船「白山丸」まで、13年間にわたって受け入れた引揚げ者の総数は約66万人、遺骨は1万6000柱であったという。

 20年の引き揚げ第1船から翌21年の年末までに、660万人を越すといわれた引揚げ者がいた。そのうちの500万人以上が帰国を果たした。20年10月の時点で日本の総人口は7241万人であり、日本は敗戦の混乱のなか、そこに660万人を越える引揚げ者という名の「難民」を受け入れねばならなかったのである。当時の厚生省は10港の引き揚げ港が所在する都道府県に引き揚げ者を援護する「引き揚げ民事務所」を設けていた。しかし、厚生省は21年3月「引き揚げ民事務所」を厚生省外局の「引き揚げ援護院」として新たに発足、その対応に備えている。
引揚船と出迎えの人(写真提供:舞鶴市)
 その後も引き揚げは順調に進み、同年8月には国民政府・中国共産党と日本の間に、アメリカを斡旋国として邦人送還協定が成立し、国民軍と共産党軍の内戦下における邦人の帰国が保証されている。

 この年の12月、在ソ連日本人捕虜の引き揚げに関する米ソ協定が成立、千島・樺太および旧ソ連支配下における捕虜たちのシベリアからの引き揚げがようやく開始され、その第1船が舞鶴に入港している。

 終戦時点でソ連にとどめられたといわれる約57万人の日本人のうち、戦争犯罪者として軍事法廷で裁かれ、2年から10年以上の刑を受けてシベリアに抑留された日本人捕虜は、およそ47万人以上といわれている。しかしそこには捕虜の名で酷寒のシベリアに抑留しながら、その実、大戦で受けた経済的損失の復興を計るための、安価な労働力として使役する、というソ連側の事情があった。それが労働力として確保された日本人捕虜の帰国を困難にした最大要因だった。

注)ソ連残留邦人とシベリア抑留者の数には諸説があり、必ずしも各資料において一致していません。

〈志治美世子〉

引揚桟橋
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