映画祭紀行・その6 「そこで笑うか…」−または《スイッチする》ということ

2月11日(前)

 0902しかし、昨晩の質疑応答は異常な盛り上がりだった。仮にお付き合いで拍手してくれたにしてもあの熱気、眼差しは感動的ですらあり、あの拍手は本気の、心からの拍手だと思いたい。そう思いながらも、《ヤケにウケてるが本当は楽しみたいがために雰囲気で笑ってるんじゃないだろうな》などと懐疑的にもなった。というのも上映中も、ウケ方がすごく、あれほどの盛り上がりは日本では経験がないためである。それに文化の違いなのか、勢いあまってなのか、何もそこまでウケなくともと、こちらが不安になるほどだ。実際、こちらの意図とは反するところで、笑いが起きたりする場面もあった。 「ちょっと待て、ドイツ人はそこで笑うか…そこで笑われちゃぁなァ」なんて思ったりする。 「この笑いは、まさか失笑ではあるまいな。それだけは耐えられない」…とまぁ、疑心暗鬼になっていろいろ思い巡らせたが、観客にとっては作り手がどう思っていようと関係ないのだ。こちらも喜劇を作っているわけだから笑いならいいか、と開き直ってしまった。問題はなかろう。
 あれほど好意的に観てくれた人々に、懐疑心を抱くなどというのも全く失礼な話だ。すぐ疑ってかかる悪い癖である。改めてゴメンちゃいと謝りたい。

 しかし心残りは、『おこさ節』である。いくら観客の前で歌ったといっても、Q&A終了後の劇場前ではちょっと悔しい。しかもサビだけである。やはり壇上で、全観客の前で歌って聴かせるべきである。
 今日こそは、歌おう。
昼食会に出席。志摩プロデューサーと共に、グレゴール氏と対談。
グレゴール氏は監督の作品の素晴らしさは《スイッチ》だと語った。(この時の模様は、別枠で発表予定)
その後、17時の上映までの時間はホテルに戻って休む。
 グレゴール氏は、この映画の良さは《スイッチ》なのだと語ってくれた。それはテレビのように、戦争のニュー0903もお笑いも歌番組もスイッチひとつで寝転んだまま好きに見られるお手軽さのことではない。あらゆる事柄を詰め込もうとも、きちんとスイッチする語り口への評価なのだという。
「見るものをお手軽に変えること」と「語り口の軽やかさ」には、ある種の類似を感じる。この類似はとても危なっかしいものだと思う。
 常に如何なる状況においても私はスイッチしたいと思うことがある。好きに生きてみたいし、映画だって好きに撮りたい。観客だって好きに映画を観たいであろう。かと言って、観る側の「お手軽さ」に沿うように、作り手がスイッチしてしまうことは非常に危険である。ひとたび画面や言葉に置き換えられると、その差異に意識すらおよび難くなる。だが、本来、切り替えというものは、何かを採って、何かを捨てるわけだから、現実世界ではとても重く、痛みを伴うはずだ。ものを表現する上でその重みや痛みを軽やかに切り替えてみせるのは確かに難しいのだ。紙一重のようにも感じてしまう《スイッチ》という言葉の重みは、改めて認識すべきかもしれない。

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