映画祭紀行・その5 「えいクソテレビ」

2月10日

夜の上映までの時間、タクシーでアウトバーンを走りポツダムへ向かう。2台に分乗したのだが、われわれの乗った方の運転手は「乗れ乗れ」とヤケに慌0702しい。そのわりに、いざ現地に着いてみると、「俺はほかで呼ばれているから、お連れさんなんて待ってられないんだ」と本当にわれわれを置いて行ってしまった。ちょっと待ってくれ、こちらには通訳も乗っていない。だいたい入り口がどこかも判らない有様だ。寒いは、腹は減ってくるは、とにかく何か食えるところへ入ろうと、あっちこっち探して歩く始末だった。

ベルリンと言えばポツダムである。ウンター・デン・リンデンだろうがブランデンブルク門だろうが、そんなものは見たくもない。とにかくポツダム、サン・スーシー宮殿に行きたい。トルーマン、チャーチル、スターリンそして蒋介石が一堂に会したポツダムである。引き伸ばされた時間で2つの原爆が落とされた、憎しみに満ちたこの土地を踏んでおきたいという強い願望からである。それについては先日、映画監督の榎戸耕史氏との対談で散々話したので、『映画芸術』(407号)を読んでいただくとして、尽きぬ想いのまま、ついでにツェツィーリンホフ宮殿も廻ってしまった。
疾走する車の窓から見ていると、アウトバーンは圧倒的だった。見事なものである。景観は特に変わり映えしないものの、前方後方に延々と続くその道は、明らかにヒットラーが作ったものだと判る。と、偉そうに云って「なぜ判るのか」と訊かれてもまったく説明できないから非常にマズいのだが、理由などはなく実感するのだ。その実感に良いも悪いもない。ただ圧倒されるのだ。
時に圧倒されることは、とても危険である。子供の頃、大牟田に来たヒットラー・ユーゲントに私は圧倒された。旗を振りながらその悠然とした姿、美しさに魅了された。美というものが軍隊にとって、切っても切れない関係にある理由はそこにある。必然なのだ。子供たちは、その美に圧倒されるのだ。

今にして思えばベルリン滞在中、まったくテレビを見なかった。向こうのテレビ番組はどんなモンかと気になっても良さそうなものだが、見る気がしなかった。だいたい何を言ってるのか理解できないだろうし、ホテルのテレビだからチャンネルを変えるうち、いつ何時いかがわしいビデオが流れるか判らない。とても危険なのである。

ところで、なぜ日本中の町から、映画館がなくなってしまったのだろうか。日本人は、本当に映画を観たくないのだろうか。
論争になると私は直ぐ負けてしまうから、あんまり大きい声では言えないのだけれど、単純に、日本人が映画を観なくなったのは貧乏人根性じゃなか0703ろうかと、密かに思っている。

60年安保の頃、私の故郷・大牟田は小さな炭鉱の労働者まですべて巻き込んだ三井三池の大争議、大ストライキだった。その時、よく言われたのは《えいクソテレビ》という言葉である。勝利の見えない闘争が約1年間続き、どんどん闘争心が涸れていく中で、全炭労者が《えい、クソ!》と、テレビに走った。みんな金がないから唯一の娯楽のテレビにでも噛りつくしかなかったのだ。家という家の屋根にアンテナが立ち並び、人々は映画ではなくテレビに走った。やがて町の劇場も姿を消してしまった。日本中でテレビの普及が伸びたのもその頃だろう。炭鉱だから、ストライキだからというのではなく、日本国中《えいクソテレビ》だったんじゃないかと思う。
家電メーカーの大きな支援による、64年の東京オリンピックは日本国民を見事にテレビ社会へと誘った。テレビはごろんと横になってその映像にただ圧倒されていれば良いのだから実に安楽的だ。日本では安楽的なことに敢えて異議を唱える者は、もはや誰もない。「安楽全体主義」、民衆ファシズムである。テレビというより、いうなればテレビを用いた圧倒的な資本主義の常識の押し売り、1億総平均化。見るほうは見る方で、商業主義への過剰な信仰、均質的なものへの安心。どうも日本人は昔から、右向け向けと言われることが嬉しいようなきらいがあるようだ。それらの「安楽全体主義」の実証現象として、映画館は消えるのだ。
近藤夫妻も合流した『ニワトリはハダシだ』一行は、今宵の上映後Q&Aに向けて、 更なる賑やかさをおびることになる。

 

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