映画祭紀行 その3 「映画の磁力」

2月8日 (後)
0402ホテルに戻り、皆と夕食をとる。取敢えず、無事に上映初日を終えた簡単な打ち上げ。
私ばかりでなく、皆の緊張も一気に解けた。ただ、倍賞さんだけはあまり緊張してなかったかもしれない。脱帽。
まぁ、緊張と言ったって、ナチス時代のドイツ映画監督たちやスターリン時代のソ連映画監督たちに比べれば生温い。害あり、必要なしと判断されれば即座に粛清されたのだ、彼らは自らの作品の試写室で、後ろの検閲席に座ったスターリンに全神経を集中させていたに違いない。スターリンの咳払い一つで失禁し嘔吐した。その緊張感たるやちょっと想像し難い。私には今日の緊張感で、もう精一杯だ。

フリッツ・ラングはナチスから呼び出しを受けてプロパガンダよろしくと言われて笑顔で握手を交わし、帰り道のその足で亡命した。ナチに傾倒していた天才脚本家である妻のテア・フォン・ハルボーは、離婚後に入党した。
『嘆きの天使』の撮影後、ハリウッドに渡った女優・マレーネ・ディートリッヒは、ベルリンのヴァリエテの踊り子だった。ベルリン市民は彼女の渡米を裏切りと受けとめ、許すことはなかったという。彼女は晩年を、パリで過ごした。1992年、死去。彼女の亡骸は、ベルリンの墓地に埋葬された。生前、彼女はどんな想いで壁の崩壊を見たであろうか。墓碑には、《我が人生の日々が刻まれし此処に、私は立つ》と刻まれているそうだ。
レニ・リーフェンシュタールは、ナチスからの要請で36年のベルリン・オリンピックの記録0303映画『民族の祭典』『美の祭典』を撮影する。彼女のように、亡命できなかった人々は党に帰依してでも撮りたい映画を撮るしかなかっただろう。皆が皆、果たして撮りたい映画が撮れたかどうかは甚だ疑問だが、『民族の祭典』はプロパガンダの下に作られた映画ではあるが、大記録映画だったことも間違いない。

余談ではあるが、ベルリンの映画博物館に行ってみると、『民族の祭典』のトップシーンを撮影するリーフェンシュタールのスチールが展示してあった。男が円盤投げする姿を、移動撮影している時のものだ。移動車を押す彼女のお尻がやけに大きい気がした。思い出すのは子供の頃、学校の講堂で始めて『民族の祭典』を観た時の記憶。あの雄雄しい全裸の男の、背後から正面へ移動する画面に吸い寄せられ、女の子たちのおかっぱ頭が一斉にギリシャ彫刻さながらの裸像の前が見える角度へ傾いた。それは正に壮観だった。凪いだ草原に、気まぐれな風が通り過ぎたような…いや、そんな爽やかなものではない。熱を伴った女の子たちの吐息を感じて幼いなりにも、明らかに引力とは異なる磁力が、地球には存在するのだと自覚させられた。
どうやらその自覚が、わが映像体験の原点らしい。

 

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