森﨑映画における「ニワトリはハダシだ」

脚本家 高橋洋

久々に森﨑映画を堪能しました。
実にダイナミック、高揚する映画でした。
家の敷居があるけどないに等しい、人間が野放図に動き回るあの空間の感じ、僕はずいぶん遠ざかっていたような気がします。他の観客も郷愁と解放感で画面を見つめていたんじゃないでしょうか。
ボートの走りもベンツの走りも『党宣言』の迫力に直結する凄みがありました。森﨑さんはふだんは全然アクションの話などしないのに、映画を撮ると何でトタンに堂々たるアクション映画が勃発するのか、ほんとに不思議です。
僕は準備稿を読んで、場面展開がぶっ飛んでいる、関節が外れていると言って、森﨑さんとしては心外だったかも知れないですが、やっぱりぶっ飛んでいると思います。ぶっ飛んでいるけど、画はつながっている、そこが凄い。人間の動きや反応が決して常識的なところに収まらない、必ず飛んでいる。
そういうことが、もともと映画だったんだよなあと今日見ながら改めて思いました。今は、カットも尺もダラダラ長いものが多くて、だんだんそれが当たり前になってゆくような‥‥。
惜しむらくは、森﨑映画ならではの映画がグングン走り出してしまう感じ、それが前半はグイグイ来るのですが、後半のベンツを巡る展開の中でもうちょっと走れなかったかなあということでしょうか。ただ、これはホンの構造上、なかなか難しいことだったかも知れませんが‥‥。
それにしても、これも森﨑映画ならではですが、大変な密度の濃さでした。原田芳雄が泳いで島にたどり着くシークエンスなど、僕は準備稿を読んだ時から、何かまる
で幻想シーンを読んでるようで、どんな風につながるんだろうとつかめずにいたのですが、海に飛び込んだり、突き落とされたり、そういう単純なアクションがドキッとする感じで起こって、ドンドンつながってゆき、決して浮き上がった感じにならない。以前、ホン作りでご一緒したときも、トコトン、キャラクターを練り、ギュウギュウにプロットを詰め込む作業をしていながら(その量がまた通常の映画の倍以上なんですが)、頭がロジックの方に偏らない、常に頭の状態が「視覚の人」であり続けている、あの不思議な感じを思い出しました。この感覚、なかなかうまく人に伝えられないんですが。
とにかくこれは、現代映画にガンと突きつける本物の「大きな映画」なんだと思います。それはカット割りひとつとってもそうだし、そういうカット割りが出来るだけ
の態勢は森﨑映画だからこそ準備できたとも言えるのですが、それだけではない、それ以前に、想像力というか、精神の張りつめ方において大きな違いがあるのだろう
と。
テーマにおいても、これは親子の話であり、育てるということの根っこにあるものに切り込んでゆく映画なのですから、今の時世だからこそ、人々が触れ得たことに
ハッとする、そういう伝わり方をすれば観客をつかめるのではないか‥‥。それは主人公の少年が感情のコントロールに懊悩し、母に食いついたりするさまを見るうちに
ジワジワとそう思えてきたのです。そしてこの感覚は、映画自体がもつ解放的なアナーキーな力としっかり結びついていると思ったのです。なかなかうまく言い尽くせ
ませんが、とりあえず感想まで。
p.s.
 ベルリン映画祭正式招待が決まったとのこと。おめでとうございます。

「何がどうドイツ人の気に入ったんだ」と監督は困惑されてるそうですが、いや、「これが映画だったんだ」という、有無を言わさぬ力なんだと思います。映画は、気持ちよく流通する前にまずぶつかってくるモノなんだという、「視覚」で考えるというのは本当にモノに触れ、根本から考えるってことで、それが映画なんだと、そういうことが今日現前してるのが森﨑映画だと。それは世界の観客に伝わることだと思います。

この勢いで何とかレトロスペクティブも実現させたいですね。では。

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