やっぱり息子はおもしろい

森﨑監督が『ニワトリはハダシだ』を語るとき、必ずと言っていい程繰り返し出てくる、あるお母さんの言葉があります。

森﨑監督 「……(略)……『私はこの子を隠そうとは思わない。他人の眼(まなこ)から、絶対に隠そうとは思わない。むしろその逆で、この子の面白さをいろんな人に知ってもらいたい。皆さんにお見せして歩きたいくらいです』。そうおっしゃったお母さんがいて、私は思いました。お母さんがお見せになって歩かなくても、私が息子さんを映画にして皆さんにお見せしたい。そう思ったわけです。ある意味大変重い気持ちでもありましたが、その言葉を聞いて頑張って撮ろうという気になりまし。」 (【ベルリン便り】ベルリン映画祭第1回上映後Q&Aより)

そのお母さんにご寄稿いただきました。
監督の言葉の中に出てくる、あるお母さんのその後の言葉です。
私の息子は現在中学1年生。知的障害と自閉症をあわせ持っています。映画の中のサムは養護学校へ通っている設定でしたが、私の息子は別の選択肢である公立中学校を選びました。サムと同じいわゆる知的障害児なのですが、彼は「ヨウゴガッコウにはいかない。ココは子どもが少ない。先生がいっぱいいる。なんだか変だよ。」そう言いました。保育園、小学校の中でさまざまなサポートを受けながら、ずっと当たり前の環境の中で育ってきたからです。だから彼は養護学校を選ばなかったのです。もちろん、この選択が正解とは言いきれません。しかし本人が選んだことなのです。私は陰ながら応援することにしました。
そして現在。予想通りに、予想以上に、さまざまな事件が起こります。その中で「面白い」を発見しては感心し、驚き、時には頭を抱える難問にぶつかりますが、最終的には息子自身が納得し、解決しています。
障害のある息子に対して「面白い」と表現することについて賛否両論あるでしょう。
不謹慎だと言う人もいるでしょう。しかし、私はある方が言われた名言、「笑いに勝る薬なし」という言葉が、生きていく中でとても大切なことであると感じているので、あえて「息子は面白い」と公言しているのです。「面白さ」を発見するということは、人とつながっていく上で、人とのつながりの中で、≪最高のコミュニケーション≫になると思っているからです。
たとえば、テレビを見てとても大笑いした、外を歩いていたらびっくりするほど面白い光景を目にした、そんなことがあったとしましょう。人は次に何をするでしょうか? 私なら翌日を待たずに誰かに話します。そして一緒に「笑い」を共有するでしょう。息子との生活は、そういった笑いに溢れています。
怒りの中にも、悲しみの中にも、寂しさの中にも「笑い」はどこかに隠れています。「笑う」という行為が、私の生活の中で最も登場回数が多いのは、どんな感情とでも共存できるからなのです。
「ニワトリはハダシだ」に限らず、森﨑監督は《ありのままの姿》、つまり「面白い」を表現することにかけて、天下一品ではないかと私は感じています。
映画は製作費も含め、規模が大きければ大きいほど話題に上るというのが常ですが、それは観る側が壮大なスケールやハラハラドキドキ感、観終わった後のスカッとする感覚、そういうものを求めているからではないかと思います。森﨑監督の映画についてはその反対で不思議がいっぱいです。「生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言」しかり、単純でスカッとする映画ばかり観てきた者にとっては不思議な感覚と疑問が、観終わった後に多く残ります。しかし、時間が経過する中でそういった不思議や疑問を飛び越えて、登場人物の何とも言えない魅力が随所に溢れているということに気づかされます。そしていつの間にか『心の引き出し』にしっかりと入っているのです。
「人を撮る」。森﨑映画はそういう視点で創られているのではないかと素人ながら感じています。
息子とサムは障害があるという点では同じですが他は違います。話し方が違う、行動が違う、感じ方も違う、選び方はもっと違う。それでいいのだと思います。違うからこそ、「面白い」のです。
私の言葉のそういった広い意味での「面白い」をご理解いただき、受け止めてくださった森﨑監督に心から感謝しています。
この作品が多くの方々の目に触れ、スクリーンを通して『人間の面白さ』を感じていただけますように。
平成17年3月31日

知的障害者通所授産施設・若草工房施設長 八尾有里子

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